これは言葉で表現するのは難しいですねぇ。
しかしこれは日本の伝統文化の背景をなす哲学ですからきちんと説明しなくてはいけませんね。
「侘び」とは不完全の美アンシンメトリー、アンパーフェクトビューティーといえばわかりやすいのでは。
じゃあ寂びとは何か?これは「枯高」、枯れて高い、ということなんですね。
これ60才のアメリカ人のお客様に説明しましたら、「わかる」と共感されていましたね。
普遍的なものなんです。
だからわかるひとは日本人であろうと、外国人であろうと一緒なんですよ。
ものの考え方、心の持ち方はわからないひとは日本人でも外国人でもわからないんです。
「月には雲があるほうがいい」この機微が侘び寂びの本質なんです。
中国(宋)から禅の高僧により日本に輸入された天目茶碗。
日本の茶の湯本流の歴史は天目茶碗から始まったのだが、この歴史について説明しよう。
時は北宋時代。最高の「文化人階級」のひとりに福建省出身の「蔡襄」がいた。その当時流行っていた
茶碗は白磁・青磁の茶碗であったが、彼は自分の故郷の福建省の「白濁するお茶」を流行らせるために
皇帝に進言する。
「白いお茶を引き立たせるには黒い茶碗がいいです。私は白磁・青磁のお茶碗は好んでは用いません」
この文化人階級とは「科挙」という難しい試験を合格して皇帝に仕えた、貴族にかわりのし上がってきた新興の
庶民階級で、彼らは荘厳な美しさを主体とする貴族文化に対抗するため、本当に心が感動する茶碗として、
天目(黒)茶碗を用い、内なる精神の陶治を求めたのであった。
こうして天目茶碗の評価はうなぎのぼりとなることになる。まさにコペルニクス的転換。
当時白磁・青磁の伝統を重んじる方々からはものすごい批判が蔡襄に浴びせられたという文献がのこっている。
黒茶碗が用いられた背景には当時の天の思想。宇宙の色は黒だから、「黒が一番格が高い」という思想が
根本にある。
ともあれ、蔡襄などの文化人は一度見るだけではなく何度も目を通すごとにじわりじわりと美境が開け、本当に
心が震える茶碗として黒茶碗を選んだ。またこの黒茶碗の中から今、日本に伝わっているような曜変や油滴などの
まるで星が瞬いているような茶碗が生まれることになる。
私は思う。まさにこの蔡襄日本でいう千利休であるなと。
この蔡襄の「茶の改革」がなければ茶碗の歴史は変わっていたに違いない。
二代真右エ門が花瓶の高台わきが2.3ミリ薄かったので、焼いたときにグシャリと歪んでしまった時がありました。
品良く歪めば花入れに見立てられたのに品悪く歪んでしまいました。
私が「もったいないからとっておいてはどうですか?」といいますと、二代は「遊びじゃないんだ。自分の未熟さ
が悔しいからたたき割る!」と割ってしまいました。
二代は「もっとロクロの技を磨かねば」と反省していました。
自分がきちんとした仕事をした後の歪みは味になりますが、未熟故の歪みは味にはなりません。
こういうことを二代は言いたげにしていました。
もちろん一生懸命つくった作品に対する愛着はあるそうで、心の中で「供養」をしているそうです。
昔は有田にも焼き物を供養する儀式があり「茶碗供養」といったそうですが、今はあんまり
やっていません。
しかしこうした良き伝統の心は大切にしていきたいですね。
焼き物の世界は天地人で表現できます。
天は「天侯」、地は「土の状態」、人は「作家」の技量。
この3つが「火の洗礼」をうけて偶然調和したときに名品ができます。
お茶の先生から教えていただきました。
千家の初代は千利休です。
二代は少庵、三代は宗旦と続きました。
その後、千宗旦は隠居し、四代目の家督を三男の千江岑に譲りました。
その後、千宗旦は隠居し、四代目の家督を千江岑に譲りました。
千江岑、これが現代の表千家の始まり。
隠居した宗旦は屋敷の裏に隠居し、四男を連れて裏千家をおこします。
そして二男の宗守が武者小路をおこしました。
なので、「表千家、裏千家、武者小路千家」と三千家となります。
簡単にいえば通りの表に住んだ千家と裏に住んだ千家というわけです。