あるすばらしいろくろ技術を持つ職人さんに、どういう哲学で生地をつくっているんですか?と質問しました。すると、「難しいことはわからん。ただ座ってろくろを回すことがすべてだ」という心うたれる答えがかえってきました。
私は文化、感性からこだわりを作品に表現するのですが、なるほど「ただろくろを回す」というのも、ひとつの境地だとおもいました。
こういう誇り高い職人さんが、有田を有田たらしめてきたのでしょうね。
あるすばらしいろくろ技術を持つ職人さんに、どういう哲学で生地をつくっているんですか?と質問しました。すると、「難しいことはわからん。ただ座ってろくろを回すことがすべてだ」という心うたれる答えがかえってきました。
私は文化、感性からこだわりを作品に表現するのですが、なるほど「ただろくろを回す」というのも、ひとつの境地だとおもいました。
こういう誇り高い職人さんが、有田を有田たらしめてきたのでしょうね。
陶芸を志す者は、常に謙虚になり、「我こそは」と言う思い上がり、我執を捨てよ、とよく言われます。
「心を無にせよ」ということですね。これは究極の境地だと思います。
しかし、これは誰にでも出来ることではありません。人をしのごうとする心があるからこそ、技術の上達にもつながることも、ありますから。
だから「我」というものは、使える時には向上心に昇華し、人と接するときなど、使えない時には捨てる、自由な使い分け、心の切りかえこそ大切なのではないでしょうか?
今では、侘び寂びと混同される能楽の幽玄美ですが、室町時代観阿弥、世阿弥当初には、洗練された贅沢のことを言ってたらしく、侘び寂びとは無関係だったそうです。むしろ、能学の幽玄美の真髄はつみどころが無いいつまでも若々さまのオーラをだすことだと思います。世阿弥は、人生の晩年、禅文化などもとりいれており、それで、混同されているのでしょうね。
当時の能楽は今の様なゆっくりした動きでは無かったようです。激しいダンスみたいな動きだったそうです。
陶磁器との関係は、京焼きの王朝文化を表現した、野々村仁清との関係が深く、仁清の茶碗の中には、能衣装から閃いたデザインが多くあります。
奥深い世界です。
陶磁器の歴史には、シンメントリーの完全なる美「絶対技巧」をもとめる中国の真の陶磁器(例天目茶碗)に対して、千利休など、日本の茶人は草の焼き物を大成します。
わかりやすく言えば、書道といっしょで真から草にかけて、自分流にくずしていくイメージと言えばいいでしょうか。
職人技を神技にまで高め、極めていくのが真とするなら、より作り手の個性を強調したものが草なのでしょうね。
ちなみに、利休は草庵と名付けた茶室を製作しています。
最近、直木賞を受賞された小説に利休にたずねよというのがあります。
その中に、秀吉を、道具を見る目が無い、と言って怒りを買う利休の愛弟子山上宗二というひとが出てくるのですが、これについて、利休がたしなめます。「茶席では、お客様に良い気持ちで帰ってもらうのが、第一であり、審美眼など、どれほどの役にたつか」と。
利休ほどの恐るべき審美眼を持つ内柔外剛の男だからこそ言える、心に響く名言です。
真右ェ門窯のおすすめです。一度、皆さんも読んで見ませんか?面白いですよ。
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