私が骨董を見る時、デザインの良さ、構図のバランスも大切ですが、
その焼き物が内実の力を秘めているかどうかをみます。
これがない骨董は軽い感じになってしまっているような気がします。
不思議ですがいいものは先人の心が伝わってくるような何かがあります。
京都の美術館の人に以前私は「深奥の美を理解するためには焼き物の前に立ち焼き物が語りかけてくるのをまちなさい」
といわれたことがあります。
それまでは、一目見て良し悪しを判断することが多かったんですが、なるほど、
こういう楽しみかたもあるんだと思いました。
焼き物を見る幅が広がった思い出でした。
日展作家としての真右ェ門は出品作品を作り上げるときにはあまり難しいことは考えません。 当意即妙。
そのときどきの想いに導かれ、轆轤と一つになり型にとらわれず原形を作ります。
激しい轆轤目の残る分厚い作品の原形は数日中室(むろ)の中で乾かされた後、削り込まれます。
その削りの時、注意しないとわざとらしい形になってしまいます。
どこまで削るか?それは重要なことです。
形を整えさらに自然の造形をのこす。
これはとても難しいことです。
そこを真右ェ門はいつも葛藤しています。
ある陶芸家さんに八年前に「どうやったら、伝統文化を若い人にわかってもらえるでしょうか?」
と尋ねたことがあります。色々な助言が聞けると楽しみに思っていたら、返ってきた答えはこうでした。
「わからせようと思ったらいけないんじゃない。」
衝撃的な言葉でした。
それから八年、やっとその言葉の意味が解りかけたような気がします。
当時は本当に未熟だったなあ、と感じた今日この頃でした。
頭で考えるのではなく、是非心で感じて欲しい言葉です。
この言葉を教えて頂いた陶芸家の方には本当に感謝いたします。
骨董品を美術館や仲買人さんの自宅で何回か見たことがあります。
全てが好みというわけではないのですが、良いものは見るものに語りかけてくるような、惹きつけられる
不思議な魅力があります。ぱっとみて心をうつものもあるんですが、じわーと心に染み入るものもあります。
目を肥やすことはとても大切なことだと思いますし作品を創るうえでとてもプラスになります。
このとき大切なのは焼き物の形ばかりをみるのではなく、昔の陶工のこころを今の現代の作品にどうやったら受け継ぐことが
できるかと真剣に考えることだと思います。
これを燈を伝えると書いて「伝燈(でんとう)」と京都の一部では言うらしいです。
伝統とは伝えて統べるというイメージが強いですし、それも伝統文化の組織を維持するのにはとても大切なことだとは
思いますが、心を伝えていくためにはこの「伝燈」、蝋燭の火をもう一つの蝋燭に伝える様な心も大切にしてゆきたいですね。
私は中国の古典が好きなのでよく読みます。
今日は私が好きな孟子のある言葉を紹介します。
「悉く書を信ずれば、則ち書無きに如かず。(ことごとくしょをしんずれば、すなわちしょなきにしかず)」
すべて本に書かれていることを盲目的に信じればとても害になる。それならばまだ本を読まないのがましだ。
という意味です。
儒教で孟子というと凄く硬いイメージがありますが、その孟子が盲信は頭の毒と語っているのです。
本に書かれていることを読み手が解釈ミスすることは論外として、あまりに法則、型にとらわれすぎると、
物事はうまくいかない、と語っているのです。
私もそう思います。
デザイナーはデザインを考える時に、決まりきった美の法則ばかりを追究しすぎると、新たな発見という新しい法則を
生み出すチャンスを見失うことにもつながります。
(ちょうどアインシュタインがニュートーンを超えるこ法則を発見したように。)
この言葉を肝に銘じ、型を知りて、型にとらわれずの観点を貫きたいですね。