武士日本の侘び寂び文化は江戸時代、千利休の美意識を中心に集約されていきますが、
織田信長、豊臣秀吉の桃山時代にはすぐれた和物の茶碗をつくる職人達が多くいました。
利休には深くかかわらない町屋の茶人であり、そういう茶人と関わっていたのが瀬戸黒、志野、
の茶碗をつくる職人たちです。
概して茶碗は大振りで、野武士や町屋の茶人たちは豪快に茶を飲み干していたそうです。
彼らには茶の湯の美の規範はなく、毅然として、いさぎ良いです。(寸法、重さにこだわった千利休とはまた違った魅力があります。)
手本として、写したものはなく唯一自然を手本としています。
(日展と通ずるものがあります。)
自然にわきおこっ てくる造形意識に素直に従っているので、無駄な装飾性は何もありません。
日本の歴史において一番「個」が発揮された時代です。
型破りな魅力を感じます。
以前、美術館で見たんですが、伊達政宗の陣羽織にはカラフルな水玉模様が一面に広がっています。
普通だったら調和しない色彩のバランスが全体ではバランスが取れているのは不思議です。
この時代、大胆な今では考えられない大胆な「粋」な模様が考えられています。
焼き物も古田織部の「ひょうげた」ものに象徴されるような普通では考えられない大胆な構図がうまれた時代でした。
今、一瞬を大切に生きた武将の心がつたわってくるような陣羽織でした。
現存は三個のみの国宝耀変天目茶碗ですが、他にも戦国時代織田信長が所持していたようです。
ところが、家臣の明智光秀の謀反、本能寺の変で焼失。
謀反を起こした明智光秀もとんでもないこともしてくれましたね。
耀変天目はその当時も今も最高の唐物茶碗です。
いまだにその作り方は謎に包まれています。
光によって様々に表情を変える幽玄の黒です。
戦国時代、将軍足利義昭と共に京都に上洛した織田信長は堺において、
茶道具の名物狩りを行ないます。そして、手柄をたてた武将に分け与えるようにしました。
いわゆる「茶の湯御政道」です。
わかりやすくいうと、茶の湯を認可制にしたわけです。
これより後、織田の武将の間で、茶の湯はものすごいステイタスになります。
例をあげると、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は信長から、茶の湯の認可が下りたとき、
喜び踊ったと伝えられ、滝川一益は茶の湯の認可ではなく、一国を与えられたので、
とてもくやしがったという逸話がのこっています。
これは、茶の湯の認可を受けるということは、信長から認められるということにつながったからです。
先日、再放送のテレビで鑑定団をみていたら、丹波焼の銭入れの壷が出てました。
なかなか形が良い壷で、後に花入に転用されたそうです。
昔の茶人は用途にこだわらず、とらわれない心で見立てを行っています。
水指から花入れに転用されたものもありますし、逆もあります。
ただこれには確かな村田珠光、千利休、古田織部らの茶人らの審美眼(しんびがん)に成り立っているのは言うまでもないでしょう。
ただ、これらの権威者が絶対ではないことも事実で、ルールはなく使う方が直感でいいなと思うことが大切だと思います。
真の美は自分の心の奥底にあるのですから・・・。