陶芸家の朝は早い。 6時30分には起き、歯磨き、食事をすませ、7時45分にはミーティング。
当代のニ代真右エ門から職人スタッフ(といってもほとんど少人数の兄弟親戚スタッフなのだが)に指令が下る。
「どうやったらもっと質の良いものをつくれるか?」「昨日一日やり残したことはなにか?」「人ができないことをやれ!」
「どこまでが無駄な作業で、どこまでが必要か?」「常に新しいものを創り続けろ!」など・・・
とくにものを作る前の心構えについては厳しいです。
そのミーティングが終わり8持15分から庭掃除。
これは若いスタッフだけではなく二代目も含め全てのスタッフで行う。
なんでも二代目によると箒でチリをはらうことは、心のくもりを払うことに繋がるのだとか。
掃除が終わるとスタッフは瞬時に作業にとりかかる。
そして真右エ門窯の朝が始まる。
「私の創りだす作品で、世の中に感動してくれるひとがいれば、それが幸せ」と常にスタッフやお客様に語っている真右エ門(本名馬場九洲夫)。
この世界に飛び込んだのは、25歳の当時付き合っていた今の妻、久美子に「私と結婚したかったら、亡くなった兄の代わりに馬場家
の跡を継いで欲しいと」言われたからだった。「びっくりしましたよ。私の家は職人の家ではありませんでしたから。」当時を振り返り二代目
はそうよくもらす。伊万里に生まれ、佐世保高専を卒業。卒業する一年前電車の中で、久美子を見て一目ぼれしモーレツなアタックの末、
交際にいたった矢先のことだった。「もちろん、とても悩みました。私に芸術家として、デザイナーとしての才能があるのか?とても責任ある馬場家の
跡取りとして、婿養子としてやっていけるのか?」など。結局この陶芸の世界でやっていく決心をする。「当時は自惚れていてなんでもできると
おもっていた。先代ともいろいろとぶつかることもあった。ほんとうに可愛げの無い弟子だったと思う」そう語る二代目。当時つくっていた油滴天目、辰砂の
花瓶を最近みる機会があった「形といい、色といい未熟だなあ。今思えば当時のことを振り返れば恥ずかしくなるね」と苦笑する。当時から二代目は
ガッツがあった。釉薬の研究やデザインの研究は、デッチ奉公であった若いころは、仕事が終わったあと、電気代がもったいないと月明かりの下で、
研究していたという。その研究した釉薬のテストピースを初代に見せたことがある。いつも帰ってきた答えは、初代の「こんなことしてなんになるか!」
という厳しい答え。研究費も出してもらえずバイトのお金で研究していたという、ただし二代目は言う。「私は全然苦労したとは思っていません。なぜなら
この仕事が好きでしたから。むしろよい経験をさせて頂いたと先代には感謝しています。そのころの経験が今とても自分の作陶に役に立っています」
最近押入れから出てきた油滴天目、辰砂の花瓶をみているうち、下手だけど一生懸命つくっていたんだなあ、という思いがこみ上げて涙が出そうに
なりますね」と語る。日展、現代工芸展に多数入選の結果、3年前先代から二代目を名乗ることを許された馬場九洲夫。二代目の挑戦はこれからも続く。
私は自分のこだわりが強いほうなのですが、25歳の時
他の73歳の職人さんから「焼き物は自分を抑えることがいいもの
をつくるコツだよ」
と言われ、自分の個性を抑えて作陶していたことがあります。
そこに初代の真右エ門が来て、
「おいおい、自分に似合わないことはするんじゃないよ」
私がこの世界に飛び込んだのは、8年前。
その前は京都に4年間いまして建造物や美術館を巡り感性を磨いていました。
さて、この世界は土こね3年、ハマ造り5年といわれていました。
この修行は土をこねることにより、空気を抜くこと、それと土の粒子の流れを
整えて、ロクロでの成形をしやすくなることが目的。
ハマつくりは同じ形をつくる修行です。
(ハマとは焼き物の下にひいて窯入れして焼くことで、焼き物のゆがみを防止する
役割があります)
ちなみに2代目がこの修行を先代から命じられた時は、
(こんなことして何になるか!)と思っていたそうですが、今ではその意味合いを認め、
「この修行は大切だよ。」と皆に言います。とはいえ、今のご時世は、仕事の間ではその修行はできず、
仕事が終わったあとにさせていただいています。
一度土こねは「土屋さんさんから来た新品の土を使えば必要無いんじゃないんですか?」という
質問を受けましたが、すぐに使えればいいんですが、1日たてばすぐに土の表面が空気に触れマクがはりますので、
そのマクをとるために土コネは必要です。
私は今、ろくろの技術を2代目に命じられた仕事のそのあいまに修行しています。
これからも日本の伝統を支えるためがんばります。
私の好きな言葉だが、焼き物は生地を一生懸命つくり、
釉薬の研究を重ね、人事を尽くしたあとは、
窯に任せるしかない。
どういう窯上りになるかは分からない。
奥深い世界が陶芸にはあります。
陶芸家が自然に対して畏敬の念を抱く人が多いのもわかるような気がします。
今度はまた新しいデザインの鉢を窯にいれます。
心は期待と不安に満ち溢れています。
うまく窯からあがることを望みます。