二代目の話なんですが、造形にもある程度の基本ルールがあって、
あまりに本能的に気持ち悪い感じのするただ目立てばいいという形は邪道というらしいです。
まあ、それもテーマ性しだいですね。
あえて邪道をすることで、社会に対しての疑問を呈したような作品もありますからね。
ようは形がどうこうより「どのような心境で作品を創ったか」という気持ちのほうが大切ですからね。
私個人としては、芸術家があんまりそんなのにこだわるのはどうかとは思います。
しかし同時に二代目は「あえてタブーにチャレンジせよ」ともいいます。
なんだか禅問答のようになってきましたね。
今日はここまで。
ある美術館で絵付けが施されている絵皿をみた。
紹介用のパネルを見てみたら江戸時代のものだった。
手頭といって見本にされているものは本当にすばらしかったが、
それを見本に書いてあったものは良いものと魅力に欠けている
ものとがあった。
この差な何だろうと考えた。
まずは皆職人は師匠の真似から入っただろう、問題はその後だ。
がちがちの教科書道理でいくのか、自分流の個性を自然に出すのか?
魅力の差とはこういうところなのだろうと感じた。
個性にも二種類あり、すぐ飽きられる個性と本質的に人の心を
とらえて離さない個性とがある。
例えば京焼の野々村仁精、能楽の衣装などのデザインはあれだけ複雑デザイン
にも関わらず洗練されているし、骨董の名品なども全然古臭い感じがせず、
生きいきとした生命力に満ち溢れている。
これにくらべ小手先の技を使ったようなデザインは数年で飽きられる。
良すぎるものは飽きるという人がいるが、違う。
詫び寂びであっても、奇麗さび、本当にいいものは飽きられない。
それは文化と歴史を作品にこめることができたか、どうかということでもある。
真奥の美(しんおうのび)とは京都の人から聞いた言葉だが、
最近ひたすらこれについて考えてみた。
名品と言われているものは、確かに素晴らしい。
あることに気づいた。
優しい形でも、力強い形でも名品とされているものは
内実の「しなやかさ」があるのだ。
これを京都の人は深奥の美と言ったのだろうか?
これはまさに「生きる力」そのものではないだろうか?
答えはまだでていない。
自分自身を深く掘り下げるために読書は好いです。
本当に奥深い本、たとえば中国古典や、司馬遼太郎さんの本、
山本兼一さんの「利休にたずねよ」などは時間をかけてゆっくり読みます。
いつ見ても新たな発見があります。
私たちもそういう魅力のある焼き物を創りたいですね。