綺麗寂びというのは、小堀遠州が祖となるお茶の流派の流儀です。
お茶の世界はくずしのある不完全の美の侘び寂びがよく知られていますが、この流派は茶碗の形にも完全さ、左右対称の完全なる美をもとめます。
これは、武士がこのような、完成された、そつの無い研ぎ澄まされた美を求めたからといわれています。侘び寂びの大成者千利休が商人だったことと比較したら、おもしろいですよ。
ちなみに、小堀遠州は、江戸初期の茶人で徳川家光の茶道師範です。
綺麗寂びというのは、小堀遠州が祖となるお茶の流派の流儀です。
お茶の世界はくずしのある不完全の美の侘び寂びがよく知られていますが、この流派は茶碗の形にも完全さ、左右対称の完全なる美をもとめます。
これは、武士がこのような、完成された、そつの無い研ぎ澄まされた美を求めたからといわれています。侘び寂びの大成者千利休が商人だったことと比較したら、おもしろいですよ。
ちなみに、小堀遠州は、江戸初期の茶人で徳川家光の茶道師範です。
もう会期が過ぎましたが先週の土曜日、近くの美術館で幻の名品と言われる明治の伊万里焼を見てきました。
確かに名品といわれるだけあり花瓶など色・品質・気品はみるべきものがありました。
これをつくった精磁会社は今は無いそうですが、その魂は焼き物の中に今も眠っているように感じ、明治にいいものを作ろうと挑んだ男達の美学を感じました。
幻の明治伊万里-『精磁会社』展
期間 : 平成21年2月17日(火)から22日(月)まで
場所 : 九州陶磁文化館
陶芸を志す者は、常に謙虚になり、「我こそは」と言う思い上がり、我執を捨てよ、とよく言われます。
「心を無にせよ」ということですね。これは究極の境地だと思います。
しかし、これは誰にでも出来ることではありません。人をしのごうとする心があるからこそ、技術の上達にもつながることも、ありますから。
だから「我」というものは、使える時には向上心に昇華し、人と接するときなど、使えない時には捨てる、自由な使い分け、心の切りかえこそ大切なのではないでしょうか?
今では、侘び寂びと混同される能楽の幽玄美ですが、室町時代観阿弥、世阿弥当初には、洗練された贅沢のことを言ってたらしく、侘び寂びとは無関係だったそうです。むしろ、能学の幽玄美の真髄はつみどころが無いいつまでも若々さまのオーラをだすことだと思います。世阿弥は、人生の晩年、禅文化などもとりいれており、それで、混同されているのでしょうね。
当時の能楽は今の様なゆっくりした動きでは無かったようです。激しいダンスみたいな動きだったそうです。
陶磁器との関係は、京焼きの王朝文化を表現した、野々村仁清との関係が深く、仁清の茶碗の中には、能衣装から閃いたデザインが多くあります。
奥深い世界です。
最近、直木賞を受賞された小説に利休にたずねよというのがあります。
その中に、秀吉を、道具を見る目が無い、と言って怒りを買う利休の愛弟子山上宗二というひとが出てくるのですが、これについて、利休がたしなめます。「茶席では、お客様に良い気持ちで帰ってもらうのが、第一であり、審美眼など、どれほどの役にたつか」と。
利休ほどの恐るべき審美眼を持つ内柔外剛の男だからこそ言える、心に響く名言です。
真右ェ門窯のおすすめです。一度、皆さんも読んで見ませんか?面白いですよ。
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